今回は京都府宇治市に残る、平安時代ゆかりの寺社仏閣などをご紹介しますね!
宇治のまちは、京の都から牛車で半日ほど。
奈良に行く際などは、京都の南をふさぐように広がっていた巨椋池をよけて宇治橋を通ったといいます。
そんな交通の要衝だった宇治。
山々や川の流れ、川に架かる橋といった景観も素晴らしく、平安貴族に愛されたくさんの別業(別荘)ができました。
今でもまちには平安時代にゆかりのある建物や道が残されています。
そして、源氏物語最後の十帖の舞台でもある宇治。
平安の文化や歴史の面影を求めて、あなたも宇治の社寺に足を運んでみては如何でしょうか?
目次
平等院(世界遺産)
998年ごろ、光源氏のモデルとも言われる源融(嵯峨天皇の子)の別業「宇治殿(うじどの)」を巡りめぐって手に入れたのは、かの有名な藤原道長でした。
道長は宇治によく通い、夏には川遊び、秋には紅葉見物をして過ごし、滞在しては詩歌や管弦の宴を催したと言います。
そして末法初年の1052年、貴族に広く浸透していた当時の浄土思想に基づいて、頼通(道長の子)が平等院へと改めました。
翌年に建てられた阿弥陀堂(現在は「鳳凰堂」として知られています)は、正面に広がる池(道長時代からのもの)や庭園と一体となり、仏教経典に描かれる西方極楽浄土さながらの美しく荘厳な姿を見せています。
頼通は平等院の開創によって、宇治川を境に浄土・人の世の対比を現実世界に体現したとも言われています。
宇治上神社(世界遺産)
宇治上神社の本殿は現存する日本最古の神社建築(平安時代後期)で、平等院の創建に近い1060年ごろの建立だと考えられています。
また、平安貴族が暮らした寝殿造様式の建物が拝殿として残ります。
ご祭神は応神天皇と、その子である仁徳天皇と菟道稚郎子(兄弟)です。
宇治神社
かつて宇治神社(鎌倉時代に再建)と宇治上神社は、合わせて「離宮社」などと呼ばれました。
宇治神社のご祭神は菟道稚郎子で、『源氏物語』に登場する八の宮のモデルになった人物だと言われています。
菟道稚郎子については「離宮に来られる際に、一羽のうさぎが現れて振り返りながら道案内をした」という伝説が残り、一説によると「菟道(うじ)」が「宇治」の地名の由来になったようです。
恵心院
弘法大師によって開かれた寺院を、1005年に比叡山横川の源信(恵心僧都)が再興。
源信は『源氏物語』で浮舟を助け新たな道を歩ませることになった「僧」のモデルになったとも言われています。
興聖寺
興聖寺に安置されている手習観音(平安時代中期)は、『源氏物語』の最後の十巻『宇治十帖』にちなんだ「手習之古蹟」に祀られていたもの(小野篁作)だと伝わります。
観音様の右足親指は少し上を向き、人々に歩み寄る意思を表しています。
三室戸寺
『源氏物語』に登場する阿闍梨の山寺のモデルになったとも言われるお寺です。
境内には『宇治十帖』にちなんだ「浮舟之古跡」があります。
橋姫神社
橋姫は橋の守り神として古くから存在し、かつて宇治橋に祀られていたとも言われています。
人々が橋姫に抱くイメージは時代によって変化し、『源氏物語』の時代には「思い人を耐え忍んで待つ姫君」として『宇治十帖』の世界観にも大きな影響を与えました。(当時は宇治橋西詰のあたりにお社があったと言われています。)
現在は『宇治十帖』の古跡の1つとなっています。
白山神社
『金色院御堂再興勧進状』には、1102年に四条宮寛子(藤原頼通の娘)によって創建された記録が残ります。
金色院を伝えるものとして、現在も総門と九重石塔(寛子の供養塔)が残っています。
浄妙寺跡
かつて木幡では、藤原摂関家の墓所が営まれていました。
(始まりの時期は不明であるものの、道長から4代さかのぼる基経のころから埋葬されたと伝わっています。)
道長は宇治を訪れた際に荒れ果てた墓所の様子を見て嘆き、先祖供養のために浄妙寺の建立を決意したと言われています。
建立にあたっては安倍晴明、藤原行成(書家)、大江匡衡(学者)などそうそうたる面々が関わり、華やかな落慶法要が営まれました。
その様子は御堂関白記(道長の日記)にも記されています。
道長に関する遺跡で全体が保存されているものとしては、現在唯一のものとなります。
橋寺放生院
境内の宇治橋断碑は日本最古の石碑断片の1つで、僧道登による宇治橋架橋(646年)についての経緯を今に伝えています。
宇治橋の架橋以降、宇治のまちは水陸交通の要衝となり、歴史上重要な土地へとなっていきました。
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